「雨ニモマケズ」 (宮沢賢治)
雨にも負けず、風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち、
慾はなく、
決して怒らずいつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、
あらゆることを、自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、
そして忘れず、
野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの小屋にいて、
東に病気の子供あれば行って看病してやり、
西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい、
日照りの時は涙を流し、
寒さの夏はおろおろ歩き、
みんなに「でくのぼー」と呼ばれ、
褒められもせず、
苦にもされず、
そういうものにわたしはなりたい
自分のことだけを考えるのではなく、人を思いやって生きていくことは、今の世の中で、見かけることがどんどん少なくなってきているかもしれませんが、それが素晴らしいことに変わりはありません。
この「雨ニモマケズ」という詩はとても有名ですが、元々出版するために書いたものではなく、自分のために手帳に書いていたもので、彼が亡くなってから発見された作品です。
この詩には宮沢賢治本人の、こういう人になりたいとは思っているけど、なかなかなれない自分がいるという、理想と現実のギャップから生じる葛藤が強く出ていると思います。さて、実は「雨ニモマケズ」にはモデルがいるとされています。
その人の名前は、明治10年生まれで、宮沢賢治と同じ東北出身の斎藤宗次郎という人です。宮沢賢治よりも19才年上でした。
斎藤さんは、花巻市に住んでいて、クリスチャンなのですが、この頃、クリスチャンは世の人には歓迎されず、迫害されていました。戦争にも反対したりしていたこともあって、元々小学校の先生でしたが、それも辞めざるを得なくなりました。
家に石を投げられることもあり、人からうとまれていました。そして、なんと、娘さんが小さいときに死んでしまいました。
それでも彼はくじけることなく神に祈り続け、子供に会ったらアメ玉をやり、新聞配達の仕事の合間には病気の人のお見舞いをし、人を励まし、祈り続けました。
そうです。「でくのぼう」と言われながらも、雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく、町の人達のために祈り、働き続けたそうです。
そうした斎藤の生き方を通して、まわりの人からのキリスト教への偏見も、次第に尊敬へと変わっていきました。町の人たちはやがて「斎藤先生」と言って敬意をもってあいさつしてくれるようになり、ついに、町中の人から尊敬されるようになりました。
子どもも「ヤソ、はげ頭、ハリツケ」などとはやし立てていたのが、後には「名物買うなら花巻おこし、新聞とるなら斎藤先生」と歌うようになったといいます。
当たり前のように人のために行動できる斎藤宗次郎。宮沢賢治自身は日蓮宗の信者で、クリスチャンではありませんでしたが、こういう人になりたいという願いをこめて、この「雨ニモマケズ」を書いたとされています。(S.K)
下記のサイトもぜひごらんください。
斎藤宗次郎 – Wikipedia
https://ameblo.jp/praise-the-lord/entry-11726933804.html